砂と鉄

よく分からない備忘録たち

『貪狼 PARADOX』・『SPL 狼たちの処刑台』の考察

『貪狼 PARADOX』・『SPL 狼たちの処刑台』の考察です。

 

《注意》
個人的な印象及び、曖昧な記憶などが含まれています。
・『SPL』、『SPL2/ドラゴン×マッハ!』、『SPL 狼たちの処刑台』の内容についての記述を含みます。ネタバレがあります。
日本語字幕版の視聴によるものです。
個人の感想のような考察です。(考察という名目の、感情の整理のようなものです。)
・2019/8/31に追記、誤りの訂正、細かい部分の表記の訂正などを行いました。今後も変わる部分や訂正があると思います。

以上の点にご理解をいただいた上で、ご覧ください。お願い致します。

 

※個人サイトに掲載していたものです。
 サイト移転に伴い、こちらに移しました。

 

 

 

 

・最初に

『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の二作品の外伝という立ち位置に、『貪狼』(以下、『SPL 狼たちの処刑台』を『貪狼』として記載します。)があるとした上で考察を行う。

日本語字幕では、リー刑事の娘の名前が「ウィンチー」だった(はず)なので、今回はこの表記で統一する。

 

・個人的な印象と考察の観点

『貪狼』を見て感じたことは、『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の二作品に似た表現が多くある、ということである。この点から、『貪狼』は『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の正統な続編ではないものの、外伝および関連作品である、という視点から映画を見た上で考察を行う。

 


・リー刑事は、娘のことを考えていたのか

自らの思考を割く、気に掛けるという点においては、リー刑事の娘への思いは尋常ではないことが作中の描写から分かる。
例として、幾つか映画の場面を上げてみたい。
まず、冒頭や節々で挟まれる「ビデオ映像」という形での記録である。作品が制作された当時(2016~2017年頃とする。)を作中での時間軸と仮定してそのときに「未成年」の子どもであったとすれば、1998~2000年頃にウィンチーが生まれたとするのが妥当だろう。(※リー刑事の「同級生か(確か)」という質問にウィンチーの恋人が「学生ではない」と言っている。おそらく、ウィンチーは「学生」として考えていいだろう。もし学生が正しい意味で用いられているならば、大学生である。)

 

 

・追記(2018/12/27)
DVDの特典映像のインタビューの中で、ウィンチーを演じられていた方が「16歳」と答えられていました。これよりウィンチーを16歳とするならば、出生は2000~2001年頃と考えられます。

 

 

ビデオに残されている映像のウィンチーは4~5歳ほどに見える。2000年代前半にビデオ撮影ができる機器(映画の画面に見られる時間表示やバッテリーの表示は携帯電話ではなく、ビデオ撮影ができる機器と思われる。)は、多くの人が持っているものではなかった。一人娘ということもあるだろうが、小さい頃から父親(リー刑事)にウィンチーが可愛がられていたと推測できる。
また、誕生日に食事の場を設けた上で贈り物を用意する、娘の友人から連絡が来た際にはすぐにタイへと赴く、など気に掛けているだろうことが分かる。さらに、「娘しかいない(確か)」といったリー刑事のセリフは、彼自身が娘のことを大切にしていたことを示している。

だが、ここで一つ疑問がある。本当に、リー刑事は娘のことを考えていたのだろうか、という点である。
「本当」を決めることは、できないだろう。ここでの意味合いは、「娘のことを理解しようとしていたか」「娘のための幸せとは何かを考え、自身の考えを娘に押し付けていなかったか」「娘と意思を確認し、話し合いなどを踏まえて同意を得た上で、お互い後悔のない選択をしようとしていたか」といったものである。
このような疑問を感じた理由は、幾つかある。まず、娘と恋人との話し合いの場面である。ここでは、料理も出ない間に警察へと恋人を引き渡してしまう。これより、おそらくリー刑事は、娘と恋人の話をしない、話し合いを進めない、もしくは聞かなかったのではないだろうか。そして、恋人が来てからすぐに警察を呼んだのではないか、と考えられる。
そして、この行為に対してチュイ刑事にリー刑事は「父親として正しいことをした」と伝えている。さらに、チュイ刑事から娘の心の問題を問われた際にも、少し間を空けるものの「ない」と断言する。娘の意思を考えるというよりも、娘を守ることに執着し、自身の行動が娘を傷つけている可能性については、この場面では考えにないようでもある。
中絶をする、という選択も明確には示されていないが、果たして誰が選択肢として挙げたのだろうか気になる点である。そして、誰が決断をしたのだろうか。
リー刑事は終盤に娘と対面して、「俺のせいだ(確か)」と言う。
ウィンチーがタイへと赴いた理由は明確ではない。だが、「恋人の逮捕」「中絶手術」などの問題がきっかけとなり、タトゥーを入れるためではないか、と映画に出てくるウィンチーの友人の言葉からは読み取れる。
上記の物語の解釈が正しいとするならば、「恋人の逮捕」「中絶」という状況を作り出したかもしれないリー刑事自身が、娘の生死に関わっていたのである。それに彼が自覚したのは、(自覚したくないために無意識に口にはせず黙っていたのかもしれないなど、様々な可能性が考えられるが。)この「俺のせいだ」というセリフを言ったときではないだろうか。

さらに、ウィンチーの描写で気になる部分があった。彼女は作中で「父親に助けを求めていない」のである。日本語字幕版で音声がカットされた可能性も否定できない。だが、日本語字幕版で見る限り、彼女が捕まった後で叫ぶように口を開く場面からは、何を言っているのか分からなかった。作中において、彼女は「助けて」と父親に求めていない。物語を盛り上げるために助けを求める箇所はありそうであるが、ないのである。ここからは、リー刑事とウィンチーの溝のようなものが意図的に表されているとも感じられた。
(ただしこれは、『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』どちらにおいても言えることであるかもしれない。SPL』では、娘は「父の日に帰ってきてほしい」と頼むが、「家族を殺害した加害者の逮捕」「ポーの逮捕」を望む描写はない。『SPL2/ドラゴン×マッハ!』でも同様に、サーが「助けてほしい」といったことを明確に表す描写はほとんどない。骨髄移植のためのドナーを求めてはいるが、そこに何としてでも助かりたいといった感情などの描写は少ないように思われる。だが、これらは「目の前で命の危機に晒されている」という状況ではない。これより、『貪狼』の「命の危機に晒され」それに怯えながらも明確に「父に助けを求める」という描写がないということは、この作品の特徴と考えられる。)

こうしたことから、リー刑事の思いや行動は、ウィンチーにとっては受け入れがたいものであったかもしれないと考える。
作中の挿入歌に「どれほど愛しているか」といった歌詞があったが、「どれほど愛して」いたとしても、伝わっているかはまた別の問題であり、自らの一方的な感情の押し付けとなってしまう場合がある。チュイ刑事夫妻の幸せそうな印象を持つ挿入歌に対しても、リー刑事とウィンチーには、また違った意味合いを挿入歌は持つのかもしれない。

 

 

・追記(2019/07/31)
チュイの妻が病院に行き、そこにリーとチュイが向かう場面(車で歌を歌う場面の後です。)で、リーは妻子を心配して無事だったことに穏やかな顔をするチュイを見て、その場から離れていく。
リーの過去にあった事故の回想から、リーが家族について考えていると窺える。
ここで、リーは娘と娘の子どもに対しても、チュイのように慈しむことができたのかもしれないと気が付いてしまったのかもしれないと考えた。
リーが事件を追うにつれて、娘を思って自らのした行いを見つめ返し、自身が過去に何をしてしまったのかと悟り、その場を離れたのだろうかと考えた。

 

 

・「命の価値」とは

これは映画の後半部分で、セリフに出てくる問いである。リー刑事の問いに、市長の側近は天災を例えに用い、「天は無関心」だとする。また、ウィンチーは終盤の回想(スマートフォンの動画?)のシーンで、命の価値に対して疑問を投げかけている。
『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』では、あまり感じられなかった要素である。(『SPL2/ドラゴン×マッハ!』において洪文剛が似たことを言うが、自らの行為を語る際に「命の価値」を語ったというものであり、『貪狼』ほど明確・具体的ではなく物語で明確に表現されていないと感じられた。)『貪狼』では、『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』で見られた、人が何かを信じ、それに従う姿を、別の視点から描いたのではないだろうか。

メタ的な観点になるが、「主人公」が「なんらかの結末」を迎えることを、避けたのではないだろうか。「天は無関心」であり、「物語」であっても「報われない」こともあると表現されているのではないだろうか。
(ただし、個人的な印象として『SPL』は「正義に従うあまりに、主人公と悪役共に何かしらの悲劇を迎える」話だと感じており、また『SPL2/ドラゴン×マッハ!』は「現実と信条のどちらに従うかを迷った末に、信条に従う」話だと感じている部分が大きいためである。個人の妄想として読み捨ててください。)

以下は、私的な感想と妄想を交えた妄言である。
リー刑事はウィンチーの中絶を否定はしなかった、むしろ肯定した側なのではないか。(ウィンチーは作中で「産みたい」と言っている。それが、何も描写もなく「中絶手術」をする場面があるため、彼女だけの意思決定で「中絶手術」をしたとは考えにくかった。)
そのために、ウィンチーは命の価値や、その正しさ、過ちについて語っていたのではないだろうか。父親、あるいは彼女自身の選択が、中絶した子どもの「命の価値」を決めてしまったのではないか、と悩んでいたとも思える。
そして、「命の価値」を問いただした相手に「天は無関心」だと答えられたリー刑事は、その問いによって自身が娘の子どもの命の価値を決めてしまったことに気が付いてしまったのではないだろうか。
娘の「命の価値」を移植手術のために切り捨てた相手と、娘の子どもの「命の価値」を切り捨てたリー刑事自身は、行ったこと(相手の意思に関係なく命を絶つ原因を作ったこと)(=市長の側近:市長の治療のために、誰かを犠牲にする。リー刑事:娘のために、中絶をさせた・肯定した可能性。)は同じである。(そこに含まれる倫理観、周囲や社会からの評価、法律などの問題、将来的に考えられる問題・利益などの可能性についてはここでは考慮していない。これらを考慮すれば、判断は違ったものになってくると思います。)
すなわち、自身の行いがリー刑事に返ってきた物語が『貪狼』ではないか、と考える。

 

 

・リー刑事の罪について

リー刑事は映画で「俺のせいだ」と言う。このセリフについて、映画を複数回見た後に気になった箇所があるので考えていきたい。

リー刑事が娘の生死につながる事件のきっかけになっていた可能性については、上述の通りである。
そして、彼の「俺のせいだ」というセリフまでの作中の描写を整理してみたい。

最初は娘のホテルの部屋を見ている場面である。カバンやホテルの引き出しを見たリー刑事は、訪れたチュイ刑事に対して「遺書」はないと言っている。
すなわち、ここからはリー刑事が娘が旅行先で「自殺する」可能性があると認識していたということである。(彼が刑事という面もあり、娘が失踪した理由について、ありとあらゆる可能性を考えられる能力があっただろうこと、捜査を早く進めてほしいという意思があり口にしたことも否めない。だが、誰からも尋ねられていないにも関わらず「遺書」について言及するのは、唐突な場面であるようにも思えた。ついでに、チュイ刑事も驚いたのか応えるまでに時間が掛かっている。)

次は、チュイ刑事からの事情聴取の場面である。娘の心の問題について尋ねられたとき、少し間を空けてからリー刑事は「ない」と答えている。これは自らの娘への行いを思い返しつつも、ないと言っているのではないだろうか。
まだこの時点では、娘への行いが事件のきっかけになったとはあまり考えにはない(あるいは、そう思い込もうとしている。)ように見えた。

 

 

・追記(2019/9/1)
ウィンチーが泊まっていたホテルの机にあったノートをリー刑事が見る場面で、「失格」と描かれたページがある。残りのページは白紙のため、ウィンチーか誰かが書き込んだものと想像できる。(機械翻訳によると、「失格」「不適任」という意味らしいです。)
また、隅には文字(小さいため読み取れず)と天秤が描き込まれていた。

このことから、ウィンチ―は自身が何かをするには「失格」であったと考えていたと思われる。
天秤の絵と、最後の場面から「命の価値」を決める(決めてしまった)ことが「失格」であったと彼女は考えていたかもしれない、と考える。

また、リー刑事もこの絵を見ておきながら、娘と彼女の子どもの命の価値を考えずに、自身がした過去の選択(恋人の逮捕と中絶手術)を正しいと思っているだろうことが事情聴取の場面では読み取れる。

 

 

そして、チュイ刑事との捜査中に仏像に祈る場面である。(身元不明の遺体についての連絡がある場面です。)
ここでは、娘が中絶手術を行う場面とそれを待つらしきリー刑事が回想される場面が入り、リー刑事が仏像に手を合わせるという場面がつながっている。
リー刑事は、何を祈ったのだろうか。考えられる可能性は、「娘が生きて見つかること」「中絶した子どもへの後悔・懺悔」といったあたりと思われる。(作中での場面のつながり上、亡くなった妻への思いなどは考えにくい。)だが、ここでは「中絶手術」の場面があるために、「中絶した子ども」ではないかと考えた。
この場面でリー刑事は、「娘が中絶手術を行った・娘に中絶手術を行わせた」という行動が、「娘がタイに訪れた」きっかけとなっているのではないか、と自覚し始めたように思われる。そして、娘のためと割り切った命に対して、中絶した子どもに対しての後悔、またはその中絶手術(中絶手術をさせたかは明確ではないが、少なくとも中絶手術を否定はしなかったと思われる。)という自身の選択への後悔の念が生まれたのではないだろうか。

以上のような幾つかのリー刑事の回想や心情の変化があり、娘を見つけたときに彼は「今までの自らの行為」が「娘の死」につながっていた可能性を自覚し、向き合い「自らの罪」を認識したのではないだろうか。
すなわち、『貪狼』はリー刑事(父親)が娘への正義と思っていた自身の行動が、「罪」だと自覚する物語なのではないだろうか。

 

 

・追記(2018/10/19)
『貪狼』を複数回見る中で、リー刑事は「鬼子母神」と似ていると感じた。
鬼子母神」は自らの子どもために人間の子どもを犠牲にしていた神が、我が子を隠されたことにより自らの行いを見返し、鬼子母神という守護神となるという話がある。(ここでの「神」はとりあえずの表記です。正確な知見がないため、どのように表記するべきか分かりませんでした。申し訳ありません。)
リー刑事も娘を守るために、「中絶手術」という手段を取り子どもを犠牲にする。そして、それが遠因となった可能性から娘は事件に巻き込まれてしまう。
こうした構図は、「鬼子母神」の話の構図と似ており(我が子のために他の子どもを犠牲にする、我が子を失う、他者〈ここではチュイとその妻、二人の間の子ども〉を守る役割を結果的に担う)、映画冒頭のリー刑事の娘への「食べてしまうぞ」(曖昧です。)というセリフも意味深に思えてしまった。

 

 

・タトゥーのことについて

ウィンチーの友人は「体の半分は自分のもの」と言う。これを、ウィンチーの身に着けている物から見ると、少し面白い想像(個人の妄想です。)ができる。
ウィンチーの右耳には、作中で確認できる限り三つのピアスが開いている。これに加えて彼女は、左腕にタトゥーを入れる。これで、彼女は左右どちらの体にも身体を傷付ける装飾をしたことになる。これで彼女の身体は、両親のものではなく、左右共に彼女のものになったとも考えられないだろうか。

・タク刑事について

彼はそもそも「トニー・ジャーの特別出演」という立ち位置の登場人物である。そして、トニー・ジャーは『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の主人公(チャイ)を演じている。『SPL2/ドラゴン×マッハ!』で犯罪組織のボスを演じたのは『貪狼』の主人公を演じた「ルイス・クー」であり、『SPL2/ドラゴン×マッハ!』と『貪狼』は、この二人の俳優を意図的に配役しているとも考えられる。
特に、タク刑事は『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』には見られない個性を持つ。いわゆる第六感的なものをタク刑事が持つと『貪狼』で描写されている部分である。
物語の結末を示唆するようなタク刑事の発言、彼がリー刑事に触れた際に見る・感じる映像や、タク刑事がリー刑事を「不吉」と断じる場面からは、彼が『貪狼』という物語の中で少し特殊な立ち位置にいる人物だと感じさせる。

以下は、私的な感想と妄想を交えた妄言である。
上記のような『SPL2/ドラゴン×マッハ!』と『貪狼』の配役に、私は「『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の洪文剛が、もしも別世界で生きていたら・輪廻転生の価値観により生まれ変わり生きていたら」という妄想を抱いた。
もしくは、『SPL2/ドラゴン×マッハ!』と同じ魂(これはうまい言葉が見つかりませんでした。同一の何かから派生させた要素やキャラクターみたいなものです。)を持つ人物で、別の物語を作った(シミュレートした)としたらどうなるかという仮定からできた物語が、『貪狼』ではないか、と感じた。

タク刑事はまさしく、チャイ看守であり、物語を導く(『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の結末のような)存在である。『貪狼』では、幾つかのシーンで『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の場面やチャイ看守を思わせる場面がある。落ちそうになった敵に手を伸ばす、誰かが落ちる、信心深い(『SPL2/ドラゴン×マッハ!』では、チャイ看守が僧に祈る場面がある。『貪狼』では彼が身につけているお守り、車内のお守りなど宗教に関連する物が見られる。)などである。
だが、リー刑事にタク刑事の意思は届かない。
タク刑事が手を伸ばした敵は、リー刑事が殺してしまう。タク刑事がお守りを渡したチュイ刑事も、リー刑事は車内へと置いて行ってしまう。
こうしてタク刑事の行いは、リー刑事へと届かないのである。
また、リー刑事の一人での捜査を続けた行いは、作中ですれ違いを起こしているかのように描かれる。車の衝突事故の場面から描かれるリー刑事とウィンチー、チュイ刑事、タク刑事とのすれ違いは、明らかだ。

 

 

・追記(2019/3/6)
事故の際の衝撃で、ウィンチーのスマートフォンが車内に出てくる場面がある。
これは、彼女が攫われた際に残していったものである。物語を見ている立場からは、「何らかの助けになるかもしれない伏線」にも見えるのではないだろうか。
しかし、これはリー刑事が「娘を助ける伏線」とはならなかった。チュイ刑事が気付き、バンや警察が誘拐事件と臓器密売に関わっていたという証拠になっている。
作品の序盤と事故場面で映されたにも関わらず、スマートフォンが果たした役割は少ないようにも思えた。
これから、「娘が託したスマートフォン(助け)が、父親に通じなかった」、そして「娘の助けと父親の助け」は食い違ったものであったという表象なのではないかと想像した。
(さすがに考えすぎな気もしますが……)

 


車の衝突事故のとき、リー刑事が逃げなければ、どうなっただろうか。
それ以前にも、リー刑事が、警察の元を離れてバンを無理矢理に一人で詰問するという行動に出なければ、チュイ刑事たちと臓器密売組織を捕らえられたかもしれない。(これは可能性の話であり、希望的な認識も過分に含まれていますが…)

洪文剛とリー刑事との共通点は少ないように思える。(自身の命、娘の命といった目的のために手段を選ばない部分は似ているかもしれない。)
それでも、『SPL2/ドラゴン×マッハ!』の業を背負ったリー刑事が、『貪狼』で道を選ぶ(洪文剛の生まれ変わりや因果を持つ、という宗教的な価値観や想像を交えると、「道を選びなおす」)話に思えてしまった。
前世を信じている訳ではない。(そういう可能性は否定できず、そういった信仰・思想などは、自らの考えの内に無意識にでも持っていると思います。ただ前世を確かに信じているのではなく、あるとしたら面白い、あるかもしれないと考えている程度です。前世の有無などを議論し前世の否定も肯定もする意思はなく、色々な考え方があると思っています。)だが、物語としての因縁や因果といったものを、リー刑事は背負っているのではないだろうか、ともつい考えてしまう。
『貪狼』はリー刑事がこの物語(または、他の作品を含むのかもしれない。)で作ってきた縁・因果をどうするかといった物語であり、その縁・因果に捕らわれてしまった話が『貪狼』という物語に思えてしまうのである。

「PARADOX」という、日本語では「逆説」などを意味する題も意味深である。ウィンチーが助かると思われる可能性は、作中で何度か示される。しかし、その可能性をリー刑事は掴むことができなかった。こうした物語の構造を指して(助かると思われる物語上の文脈・伏線を示しながらも、助からないという結末に至る点。)「PARADOX」としているのだろうか、などと想像してしまう。

 

 

・追記(2018/9/8)
映画の冒頭(『貪狼』のタイトルが出るあたりです。)で、町の景色が逆さまになって降りてくることも、象徴的に感じられた。
水滴?が流れ落ちることから、重力は画面の上から下にあると表現される。それでも、街は逆さまに描かれることから、『貪狼』という物語が「逆説」(「PARADOX」)的な話だと表しているのかもしれない。
『貪狼』を複数回見て、「リー刑事が娘を助けようとしたこと」(恋人の逮捕、中絶手術、強引な捜査など)が「娘を助けられない」という結末になってしまう物語を「逆説」(「PARADOX」)という副題にしたのかもしれないと思った。

 

 

・市長の側近について(2018/9/30追記)

市長の側近について気になる点があるので、その点を考えてみたい。

まずは、「命には限りがある。運命・天命を受け入れろ」(曖昧です。)といった文言が書かれた皮製品と見られる物をサーシャから受け取り、精肉用の機械へと投げ込む行動である。
これは、側近が違法な臓器移植を行おうとしていることに対して、彼自身がどう思っていたかを推察できる場面と考える。
なぜなら、この場面は作中での伏線でもなく、後の展開にも関わることのない場面のためである。そのため、側近の心情や思いなどが反映された行動だったのではないかと思われる。
サーシャはおそらく、誘拐してきた人物に対して罪悪感を持たないように、あるいは気にしないために、この言葉を掲げていたのではないかと考える。(ただし、サーシャは客に対して『考えすぎるな』(※ここは日本語字幕だと『考えるすぎるな』と明らかに誤りと思われる表記がありました。正確ではありませんが、一応ここでは訂正したもので表記します。)とも言っているらしいため、取引をする相手、客に対しての言葉かもしれません。サーシャ自身には、作中の子どもを人質に取る、隙のあるリー刑事に致命傷ではなく怪我を負わせるといった行動から、罪悪感や良心の呵責や、倫理的観点からの悩み、苦悩は少なかったとも考えられます。)
しかし、側近はこの言葉を「市長の命の危険を受け入れろ」と捉えていたのではないだろうか。臓器移植は人の手によってされることであり、そういった面で考えれば「寿命や病といったことに、手を加えている」行為(細かく考え出せば、薬の服用、怪我の治療、経験則に基づく食習慣や文化、民間療法もそうかもしれません。ただ、臓器移植は現時点においては明らかに他者がいないと成立しない治療法ということから、こう表現しました。)とも考えられる。特に、違法な臓器移植は作中で描かれるように誰かの不運や不幸(につながりやすいと思われる、『死』という現象)が前提にある。
そうした誰かの犠牲を側近は認識しつつも、市長を助けようとしている。すなわち、市長の死という運命を受け入れず、強引にも抗おうとしていると側近は自身で理解していたのではないだろうか。そして、その自らの行動に図星であった言葉を機械にかけ、捨てるという行動から、「非情なことをしてでも、限りある命・運命に逆らう」つもりであったのではないだろうか。

次に、最後に側近がリー刑事に向き合う場面である。
リー刑事が拳銃を持っているにも関わらず、側近は市長の家族が来る廊下の扉を開けたままにしている。リー刑事が、「動くな」と脅したといった行動も見られなかったため、私には疑問に感じられた。側近が市長を守ることを最優先にしているのであるのならば、市長の家族も同様にリー刑事から遠ざけようとするのではないだろうかと感じたためである。
しかし、側近は市長だけでも助けてほしい、市長の家族には危害を加えるな、といった懇願をしない。ただ、リー刑事の問いに答えていくのみである。
また、側近は「命の価値」を問われ「天は無関心」だと言っている。
ここから、側近ができる限り直面した現実と命の価値に関して、「無関心」であろうとしていたのではないかと考える。
リー刑事が、市長やその家族に対し、報復として危害を加えるとも推測もしていただろう。それでも、説得などはせずにリー刑事に「報復ができる」可能性を与えることにより、側近は自らの直面した現実を受け入れていたと考える。
側近は、市長のために手を尽くしているように思われる。それでも、リー刑事を押さえることはできずに市長たちの元へと訪れる。そこで、側近は「天」「運命」といった言葉で表される抗い難い大きな流れに、諦めを見せたのではないかと考える。
諦めというよりも諦観というように、側近の行ったことが「天は無関心」なことであるならば、側近の目の前のリー刑事が行う行為もまた「天は無関心」なことだとして受け入れようとしたのではないだろうか。

 

 

・追記(2018/12/27)
リー刑事は「チュイの妻と子ども」を人質に取られている状態であり、側近の方も全くの無防備で武器となる状況がなかったわけではない。
そのため、側近は「子どもを失った」父親(リー刑事)が、「人質の母親と子ども」の命を見捨て、再び自分と同じ境遇をチュイにさせないだろうと考えていたのかもしれない。(もしくは、娘がいたことから市長の家族を傷つけはしないと考えていたかもしれない。)
(冷静に考えればリー刑事を危険なく無力化できない時点で、リー刑事があの場にいる全員に対して危害を加える危険性がないとは言いきれません。しかし、側近は人質の命を握っているためにリー刑事がどのような行動に出たとしても、後になってから他者による報復が可能です。その場における主導権はリー刑事が握っていますが、後々の影響までを考慮すれば側近が握っているとも捉えられます。こうした立ち位置を理解し、側近はあのような行為に出たとも考えられます。)
市長が移植手術の事実らしいことを知ってしまったために、側近が地位や利益を諦めて市長を見限ったのかとも考えてみた。
しかし、市長はリー刑事の銃声で目を覚ましていることから、違法な臓器密売と移植手術を市長から隠し通せる可能性が全くないわけではないので、側近が市長を裏切ったという可能性は少ないと考える。

 

 

こうした側近の行動から、私は側近自身が「天は無関心」「不運」の象徴ではないかと考えた。『SPL』『SPL2/ドラゴン×マッハ!』で主人公たちと敵対する存在は、かなり感情的な側面や目的への強い動機を窺うことができる。(ポーは長年の警察との対立があり、お互いに憎しみにも近い感情があるように思われる。また、家族への愛情を見せる場面もある。洪文剛は『生きる』ということについて語る場面があり、彼の抱く意思と目的が窺える。)
しかし、側近が違法な臓器移植という手段まで利用して市長を助けようとする理由は明確に語られない。市長と側近の関係や過去に何があったのか、市長の生死がどれほどの影響力を持つのか、といった理由は作中では見られず、どういった目的があり側近が行動を起こしたのかは明確には分からない。
こうした特徴や動機を排除された側近の描写から、側近には感情移入やどういった感情から行動をしたのかを想像がしにくく、また上述した彼の行動からも、側近は「天は無関心」「不運」の象徴として描かれているように思われた。

 

・最後の場面について

チュイが無事に子どもが生まれたことを知る、最後の場面のことについて考えてみたい。

子どもが生まれたと教えてもらったチュイは礼を言い手を合わせた後に、リー刑事と一緒にいた際の場面を回想している。
『月亮代表我的心』という曲を歌っている場面である。この曲をチュイが歌っていたとき、隣で家族(または、愛していた存在)をリー刑事は思い出していた。(中盤のこの場面で、リー刑事は交通事故を回想している。)
このとき、チュイは自分がリー刑事と同じ境遇(我が子を失う)をたどったかもしれないこと、それからリー刑事が死という選択肢で守ってくれたことを改めて思い出していたのではないかと想像した。

 

・『貪狼/SPL 狼たちの処刑台』はどういう話だったのか(2019/9/1 追記)

まずこの点について述べる前に、これは個人的な解釈による「私にとって『貪狼』はどういう話だった」のかと考えたことを整理するための文章であるということをご理解ください。
鑑賞した方の人数だけ物語および作品の解釈はあり、「どういう話」だったかと感じたことも違うと思っています。
以下で記述する内容はあくまでも一個人の解釈であり、「この作品はこう解釈すべきである」「この見方・解釈が正しい」などといった意図は含んでおりません。この作品から、このような思考および解釈をしたものがいる、といった程度の備忘録です。

 

『貪狼』は悲しい物語であるかと考えてみれば、そうだと考える。
しかし、この考えは「物語(現実で認識した出来事・現象に因果を結び付けて理解し、意味を読み取ること)は幸せであってほしい」という「鑑賞者」という立場にいる者による思い込みであり、傲慢ではないだろうかとも思った。
物語の鑑賞者である私は、「物語」は「幸せ」であってほしいがために、「誰も傷つかず」「死者もいないこと」を望んでいるときがある。しかし、それは鑑賞者の勝手な思い込みであり、「生きていることを最上位の幸福(もしくは、『生きている』ことは幸福になるために最優先にするべき状態、前提条件であるという考え)」と仮定している私の価値観を押し付けているのではないかとも考えた。
そこから、『貪狼』は「物語」から「宗教的な側面や意味合いを持つ神話・説話」と考えてみたところ、「悲しい」とはまた違った印象を持った。
宗教的な神話や説話には、困難などをどう対応するか、向き合うかを考えさせるような話もある。
そして、『貪狼』は命の価値は何かを説き、考えさせる役割を持つ物語ではないか、と考えた。
『貪狼』は単純に娘の命が亡くなって(裏社会の取引に巻き込まれ、強欲な人々に利用されて命を奪われたことを含めて)しまったことを嘆く話ではない。(嘆くだけの話であれば、最後にチュイが救われる物語である必要はなかった。陰惨な出来事のみに焦点を当てて、『陰惨で嘆くだけ』の物語を作ることも可能だったはずだと考える。)
しかし、リーは自身の罪の可能性を察し、最後に彼が選び取った行動でチュイたちを守った。リーが娘に向けていた愛は何だったのか、作中人物たちが考えていた命とは、命の価値とは、「天(人がどうしようもない事象と因果)」とは、何だったのか。
『貪狼』は、そうした「命の価値」や「命を巡る因果」を改めて考えさせるための物語であるという結論である。