砂と鉄

よく分からない備忘録たち

『ソータス』シーズン1を見て思ったこと

『ソータス』シーズン1を見て思ったことです。

感想と私が思ったことです。『ソータス』が好きな方はお気をつけください。

 

《注意》
・作品の内容に触れています。
・私の思ったことを書いています。

 

※非公開にしていましたが、2021/6/27 に加筆修正をしました。

 

 

 

感想

タイの大学はまったくと言っていいほど知りませんでしたが、大学生の青春ものとしての完成度はすごいと思います。

各登場人物と、大学に入学したばかりの主人公たちの葛藤、悩み、恋愛、学問への姿勢などが描かれ、少しずつ人間関係が広がっていくのもとても導入がうまく、15話を飽きずに見られました。

 

見ていた当時の感想です。
ネタバレ、容姿への言及、伏字などにしていますが成人向けを匂わせることが書いてあります。また、とても口が悪いです。過去に投稿したものを、一部修正しています。

privatter.net

 

思ったこと

無自覚の差別と暴力

作品は面白かったのですが、ドラマを久しぶり(10年ぶり?)に見て、「無自覚の差別」がすごいと感じてしまい、実は途中でかなり落ち込んでしまいました。(作品のせいではありません。)

 

〈2021/6/27 追記〉

ドラマを久しぶりに見たと書いていますが、『ストレンジャーシングス』『愛なき森で叫べ』などの配信されたドラマを見ていたことを思い出しました。

それでも、映画と比較するとドラマはあまり見ていませんが…

 

合理性のない暴力

作品の「ソータス」とされる制度ですが、作中で行われることは理不尽で、暴力的とも(AmazonPrimeの翻訳では『体罰』と表現されているときもあります。)感じられます。

例を出すと、「スクワットや腕立てといったことを、先輩の意向に逆らった場合に命じられる形で行われる」といったものです。

ちなみに作中では、参加しないと先輩に責められるうえ、やる気がないとみなされると「先輩が感じる」と嫌味を言われてさらなる運動をさせられることもあります。そして、過呼吸で倒れた学生も作中ではいますが、「事前に自己管理できず、しないという選択を後輩がしなかった」と責められます。

これは学業や働くところでもですが、「パワーハラスメント」に等しいと思います。誰かに逆らいにくい、誰かと異なった意見を出しにくいところで無理をした結果、どこかで問題が出ると、「問題が出る前に、なぜ自身で言い出せなかった環境なのか」といった部分ではなく、「皺寄せがいって、害が出た本人に責任を感じさせる」ように言うのは、個人的に怖いと思いました。

(窃盗が起こった場合、窃盗をした本人がなぜ窃盗を行ったのか、どういった目的・動機があったのかが問題のはずが、「窃盗をされるような隙があった被害者が悪かったのではないか?」となる問題です。痴漢などの犯罪でもそうした意見を聞きますが、本来は犯罪をした側に非があるのではないかと思います。仮に窃盗ができた状況があったとしても、まず盗むのが法に外れた行為であるのに変わりはありません。)

 

こうしたことは、後輩に対して理不尽かつ正当性があるとは思えないことを言って、「先輩への反抗心」を高め「後輩の団結力」を持たせるために、作中で行われています。

そのため、作品の後半では団結した後輩たちが「団結できるものとしてソータスを認識」し、再びソータスを行いつつも、比較的「(先輩よりも)優しい」ものを行います。

 

つまり、作品でソータスは「理不尽な暴力・威圧的または支配的な先輩たちの行いが正しいことだった」と認識されるように演出されています。(正しいというよりも、「後輩たちが団結するために必要な悪だった」といった印象を持たせるのに近いです。)

 

しかし、「後輩たちが団結するため」ならば、「先輩たちがわざと印象悪く振舞って、敵という役をして暴力的・支配的な行動」をしてもいいのでしょうか。

言葉を用いての対話ができるのであれば、「団結してほしいから」「何かしらの試験を行う」といったシミュレーションを企画する、それを事前に認識してもらったうえで後輩が任意で行うといったものはできなかったのだろうかと疑問に思ってしまいました。

 

合理性があれば暴力をしていいとは思いませんが、「目前で進行中のレイプをやめさせるには、説教ではなく力が必要で、それもレイプ後ではなく事前に」(士郎正宗攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』1991年、講談社、234頁の枠外より引用)といった言葉もあるように、時と場合次第では「何かを守るために必要とされている暴力(力)はある」と思っています。

つまり、私が感じたことは「何かのためであれば、本来の意思とは裏腹に嫌われる役を演じて、誰かに嫌な思いをさせる・辛いことを体験させてもいいのか」「たとえ理由があったとしても、理不尽・不条理・非合理な目に誰かを遭わせてもいいのか(生存・職業としての任務に必要とされている場合などは除く)」という疑問です。

また、何かのためであったとしても、誰かの心身に負担をかける行為を「団結」のための手段として安易に採用してもいいのか。そして、そうした自身の行いがどれだけ他者を傷つけるかもしれないのか、他の手段をないのかと考えるのを先にしなくてもいいのかとも思います。(ありとあらゆる可能性を想像することはほぼ不可能であり、それをしているよりも行動を優先することが有力な場合もあります。しかし、だからといって、考えなしに「暴力」「何かを強いる」といったことを行っていいとは限らないと思います。)

 

容姿・性別への言及

特定の誰かを自身の嗜好や認知の偏りにしたがって、かわいい、かっこいいと思うことは自由だと思います。しかし、それを表に出すというのはあまり好まれる行為ではないことがあると私は考えています。

ただ、この作品では「容姿が周囲よりも秀でている」「特定の性別」のために、先輩が愛想をよくする、先輩が近くにいたがるといった表現が散見されます。

(旅行先で女性の後輩に男性の先輩が歌を聞かせる名目で傍にいさせる、男性の先輩が女性の学生に対して容姿に言及したうえで個人情報を要求する、近くに座ることを肯定するなどです。)

これは、「誰かの個を認めず、容姿・性別で価値を見出し、評価している」ことです。(容姿・性別に価値を見出すことを否定するつもりはありませんが、個人の価値は誰かによって評価されるものではないと思います。特に、見た目や容姿で価値が決められる、この性別は~するべきだ、~するといいと決めていいものでもないと思いたいです。男性・女性であるからこそ、体重制限をした方が美しく見えるからするといい、化粧をするといい、こういった流行に乗って男性・女性らしく見える格好をするといいなど、社会的にしばしば見受けられる美醜の価値観を他者にも押しつけるのは、どうだろうかと疑問に思います。)

 

ここで私が感じたことは、「作品全体で、個人を認めていないのか?」ということです。

主人公のコングポップも「かっこいい」「成績優秀」「男性」「誰かを思い遣れる」といった個性が作中で表現されますが、彼はただ「かっこいい」「優秀」「男性」「誰かを思い遣れる」から「いい人」ではないと思います。彼はどういった「容姿」で「性別」だろうが、まず「コングポップ」という人物であり、そこに他者と比較して見えてくる「容姿」「性別」「性格」といった個性があるのではないのでしょうか。

しかし、上記のような「女性だから、男性の先輩の傍にいさせる、そして男性の先輩はまんざらでもない」といった表現があると、「女性は見目や性別で区別され、本人が何をしたいかよりもまず、『男性の先輩を喜ばせることをさせられてしまう』」=「特定の性別・外見を優先して評価し、個人として認めなくても『特定の性別』『容姿が秀でた者』として扱ってもいい」ということを肯定されているように感じてしまいます。(愛想を表に出すことは大切ですが、それはその人個人が愛想をよくして何かをしたい場合に任意でするものであり、「特定の性別だから、特定の性別の誰かに愛想よく振舞うべき」と決まるものではないと思います。たとえ、そうした文化や価値観があったとしても、誰にでも通じるものとして扱っていいものではないと思います。)(自分でもよく分からなくなってしまいましたが、例えると「料理が上手な女性・男性ではなく、料理が上手な〇さん」としてまず個人を認めてほしいと私が思っているだけです。)

 

つまり、ここで感じたことは、「この作品は登場人物の個ではなく、まず『どういった性別』か『容姿』なのかを評価することを肯定しているのではないか」といった印象です。

 

 

恋愛と差別

私は、誰かが誰か(何か)を好きになることも、好きにならないことも、様々な形で好きになって、その人なりの好きを表すこと(法と秩序を乱さない、合法の範囲で)は許されている、認められているものだと思っています。

しかし、『ソータス』を見ていて、まだ周囲から認められない好きがあるのだと現実を思い出しました。

 

なぜこうしたことを感じるのかというと、『ソータス』の一話で、「男性が男性に対して『私は男が好きです』と言わせる」場面があります。

私はここでとても怖くなりました。

性自認や性的対象を、そうして「言ってもいい」「嘲笑の対象としてもいい」と思われていることが怖かったです。

なぜ、あえて「男性と見える肉体的特徴を備えた人が、男性を好きだと言わせる」のでしょうか。それは、この作品の人物(アーティット先輩)がこの行いを「男性が男性を好きなことが”普通”ではないと差別している」「”普通ではない”と馬鹿にして、蔑んでいる」ことだと認めているからでしょう。(ここでの普通は、「異性愛」のことです。)(異性が好きだとあえて言わせるか? 異性愛は"普通"だからあえて好きだと言わなせいのでは? といった感じです。異性が異性を好きになるのがごく日常の文化だとする地域では、ただの日常です。あえて言わせて、笑う・馬鹿にする文脈は発生しません。これは異性愛者の特権(優位な立場)であり、無意識の強者であり、弱者側として生きなくてもいいという差別構造の上位にいられる人々の考え方ではないでしょうか。)

すなわち、「男性と見える肉体的特徴を備えた人が、男性を好き」だとあえて嫌がらせのために言わせる文脈は、「男性と見える肉体的特徴を備えた人が、男性を好き」が「異性愛」を外れている「特異」、または「異常」なものだと、表しています。

「現実の異性愛者という大多数派にとって、少数派を見る目線」としてはこれより生々しく、リアルな表現はなかなかないと思います。

しかし、同性愛を取り扱う作品で、「同性愛」を嘲笑するかのような表現があること、また特定の誰かの性自認や性的対象を軽んじているような表現は、「異性愛から外れた少数派を消費している」「少数派を正常ではない」と扱っているようにも感じてしまいました。(作品で描いているのは差別ではない、ここまで少数派を応援している、あえて少数派がいるということも表現している、と感じるとすれば、それは大多数派の無意識の差別とでもいうのでしょうか。私も、まだ言葉にはまったくうまくできません。ですが、あえて「普通ではない」「異性愛者ではない」ことを強調されて作品で取り上げられること、おそらく鑑賞者の多くを占めているだろう異性愛者たちも「少数派を描いている」とこの作品を賞賛するほど、無意識で差別〈異性愛者以外を”普通”ではないものと思っていると表している〉をしていると感じられてしまう文脈が発生するのを知らないのでしょう。)(差別をする側は「差別をしている」という認識がなく過ごしているのだとは言いますが、私は『ソータス』を見てそれを改めて実感しました。)

 

特定の性別も、性自認も、性的対象も、誰かに何かを思われるために、誰かを楽しませるために、誰かに哀れに思われるためにも、同情されるためにも、特別視されるためにも、そうした要素を持って生まれてきたわけではありません。ただ誰か(何か)を好きになり、様々な方法で好きという感情を持つ(持たない場合もある)、それが世の中の多くを占める何かと異なっていただけです。(好きといった感情、好きという感情の表し方が人によって違うようなものです。)

ただ、生まれや環境によって備えた持った個性とされるものを持って生きているだけです。

しかし、この世で大多数派となる異性愛者の認識する文脈、娯楽としては、まだ少数派の立場の「特定の性別も、性自認も、性的対象」は「異性愛者という大多数から外れた、”普通”ではないもの」として消費され、消費されてもいいものだと認識されているようだと思いました。

そして、生まれ持った(もしくは、後天的に得た)だけの性質が「異性愛者という大多数派から外れただけで」まだこうして差別をされているのだと、私は感じてしまいました。

しかし、特定の性別・性自認性的指向によって、誰かを好きになる、好きにならないといっただけで、まだこういったことがあると大多数派の嗜好を持って生まれられなかった(存在できなかった)「不適合者」なのだろうかと思う気持ちも分かります。(というよりも、私は『ソータス』を見ていて、自身が異常なのかもしれないとかなり思いました。)

 

〈2021/6/27 追記〉

(今でも、異常なのだとぼんやりと悩んでは、くだらないなと思って、少しだけ苦しい気がします。けれども、とてもどうでもいいです。アーティット先輩のような人にとっては、私の持つような悩みなどは、矮小で嘲笑ってもいいと思われる、くだらないものだと知っています。大多数派の異性愛者にとっては異常そのものだと、矯正されたとしてもおかしくはないものだとも理解しています。そして、自身でも"普通"になれなかったことへの罪悪感と悩みがありました。今でもあります。)

 

インターネットで異性愛者の方が「同性愛者の恋愛の葛藤は差別だと思うので、かかない」といったものを見て、もやもやしたことがあります。

なぜなら、「あえて表現しないこと=差別ではないと表明できるという考え」は、表層的なものではないのかと私が思ってしまったためです。

同性愛者が「同性」同士の恋愛、自身たちの肉体の性別が同じというだけで社会的な背景から悩まされている、このことが差別です。差別を作り出しているのは、同性愛者を異性愛者とは異なるものとして、「普通・一般ではない」と扱う社会と文化、構造です。差別を作り出し悩ませているのは、同性愛者である人々ではありません。

しかし、同性愛者が「同性同士で恋愛すること」に葛藤をしないことを描かないことは、むしろ差別ではないのでしょうか。これは、コンプレックスを受け入れろと、他者と違うことを悩むなと押しつけていることだと私は感じました。本来は、差別を作り出している社会構造が、同性同士での恋愛を悩むことのない環境を作り出すことが「差別がない」のではないでしょうか。(このあたりは、浅学のため違うと思いますが…)

 

さらに考えてみると、異性愛者でも恋愛について悩み、葛藤します。

お互いの立場、人間関係、今後の利害などです。しかし、異性愛者は「自身の肉体的な性別で悩む」ことはありません。ただ「個人と個人の恋愛関係」について悩んでいます。

それが同性愛者は「個人と個人の恋愛関係」以前に、「肉体的な性別が同じという扱いを受ける者同士での恋愛関係」に葛藤させられる社会的な立場に置かされています。

この構造や文化自体が差別なのではないか…? と私は考えています。

つまり、同性愛者が「同性同士で恋愛関係にあることに葛藤する」のを表現するのをしないのではなく、「異性愛者と同じように、『個人と個人の恋愛関係』に葛藤する」というのを描くことが差別ではなくなるのではないかと考えています。(けれども、きっとこれは間違いなのだろうなと思います。いつかこの考えも変わります。)

 

 

差別について(個人の考え)

※これは個人の考えです。

 

差別という人間が持っている機能自体を、私は根本からすべてを批判、否定するつもりはありません。

何かと何かを比較して差を認めるという機能は、人が細胞分裂からでき、細胞膜を有し、複数の細胞から成る層、組織を持つ生物として進化と変化をしたことで獲得した機能であり、「自身」と「他者」を区別するために必要な比較をし、差を認識する機能だと思っているためです。

誰かと自身が違うという「差」を認識できなければ、相対的な比較ができず、自他の区別を曖昧化してしまい、自他で異なる肉体を持つ生命が生きるには問題があるのではないかと思います。また「差」があるからこそ、差がある中で似た要素を持つ個体、血のつながった関係に似た要素で共通認識や仲間意識を持って集団を作り、個よりも集団としての生存率を上げるといった機能にもつながっていったかもしれません。

しかし、差をつけるという機能をごく日常のものとして扱い、脳に負担がかからないように運用し、文化というものを培ってきた結果、「大多数派から外れた少数派を差別してもいい、差別がある方が大多数派にとって有益になる社会構造を作る」、「個人」よりも「差別」を優先してしまう(つまり、社会に属する少数派より大多数派が生きやすくする・優位に立ちやすくする構造や文化を作り出し続けていく)ことを良しとして考えているわけではありません。

少数派とされる属性を持って生まれたことは、任意で選べないためです。(もしも私がそうして生まれる属性を選べたのであれば、大多数派に属することのできる要素を選んでいたと思います。その方が、まだこの時点では生きやすいと思うためです。)

どういった属性を持っていたとしても、可能な限り生きやすい、個人が様々な可能性を選べる機会があることがたとえ理想であったとしても、それがいいのではないかと私は思っていたいです。その方が、人徳がありそうなので…

 

 

『ソータス』と差別について(個人の見たこと)

※とりとめが本当にありません。

 

実は、『ソータス』はタイBLドラマとしてツイッターなどでときどき見て、知っていました。

いわゆる「男性同士」の恋愛を好む、女性の方々の感想を私は見ていました。

その中には、普段女性として「性別による差別」「性差と問題」といったことを日常的に問題提起している方もいました。

しかし、そういった方々の多くは『ソータス』での表現に怒りを持ちつつもあくまで作品としての感情移入に留め、最終的には作品として評価し、楽しんでいました。

おそらく、そうした方々は「『ソータス』で描かれる無自覚の暴力・差別を気にせずに楽しめるほど、現実と作品の違いを割り切っている、大多数の立場にいる、作品として楽しむことができる」のだと感じました。

そこに、差別というのは無邪気というか、多くは悪意がないものであり、表面化もしていないものなのかもしれないと思いました。

 

 

私のこと

ここまで書いていて、私がどのような立場(性自認など)を明かさないのはおかしいと思われると思いますが、明かしたくないため書きません。

明かす自由があるのであれば、明かさない自由があると私は考えます。(それこそ、異性愛者が異性愛者だと明かさないようにです。そして、まだ明かすことで言われたくないことを言われ、差別を受けるかもしれないという可能性が排除しきれない現状では、「明かさないこと」にも利用価値が生まれていると思います。「明かさないこと」に価値がなくなれば、明かさない自由といった私の考えも変わると考えています。)

なぜなら、私が持つ(持たざるを得なかったものを含め)属性を、消費するように言葉として、情報として書けるほど私はまだ自身のことが理解できていないうえ、あまり好んでいるものでもありません。そして、個人として私を開示して、切り売りするように消耗・消費したくも、されたくもありません。

もしも私に関することを開示をしたところで、大多数派に属する立場の人々から同情をされて、「少数派を理解している」「少数派を応援している」「少数派の味方」だと表明をされて満足感を得られるような消費をされるかもしれないと思うと、怖いです。

そうした啓蒙をすることを表明することが好きな大多数派の嗜好を持つ方、少数派の立場に理解を示す自身を表明したい大多数派の嗜好を持つ方、少数派の属性を持つ相手に何かをしてあげたいとして近寄ろうとする方を、私はインターネットを介して見てきています。

もしも、私が私の持つ属性を明かしたとき、「その属性を持つから、仲良くなりたい」と言われるようなことがあれば、私はそれを「私を私だと認識しない、少数派としての私を見たがっている」差別だと感じます。(私が持つ属性がたとえ珍しいとしても、あからさまに”珍しい(=普通から外れている)”と扱われるのは好ましくないと思っています。)

「私」ではない、「少数派の属性を持った私」として認識をされたいとは思いません。

などとは書きつつも、私が必ずしも少数派の属性を持っているとは限りません。

ただ、私は「私が私のことを表にすること」を必ずしも是として考えてはいません。そして、理解されたいともあまり思っていません。私自身が、まず私を理解することを少しずつするだけでも、自身の頭や思考能力の容量をかなり使ってしまっているためです。(誰かを理解できる・救えるといった考えを持つこと自体が、傲慢だと私は考えているためでもあります。理解について考えれば考えるほど、自己と他者の自我境界があいまいにならないように距離の取り方に注意を払い、どこまでなら自分は相手を理解することが可能なのか、そもそも「理解」とは何なのか。そういったことを考えていくうちに、完全に理解するといったことは不可能に近いのだと思います。)
(技術が発達し、他者との脳や神経の接続が可能となり、言語以外の感覚で概念や思想が共有できる時代が訪れたときには、この考えも変わると思います。)

 

 

恋愛について

私は『ソータス』を見て、多くの方に受け入れられて楽しまれているという現実にかなり驚いているのですが、その理由を考えてみます。

恋愛について、私は「お互いに尊重し合い、自身が相手のためと思ってすることに対して理想の反応が返ってこなかったとしても、見返りを求めずに相手を思い、何かをして大切にいたわり、共にいられる時間を可能な限り継続を望むこと」という意味合いを持つことに気がつきました。

種の存続、血のつながり、利害関係、肉体関係、快楽、社会的立場といったものよりも、「相手が大切だからこそ、自身の身勝手な思いでも相手のためと考えて行動し、尊重し合う」ことに恋愛の主軸と考えているようです。(恋愛に関して影響を強く受けているのが、楳図かずお氏の『イアラ』や園子温監督の『愛のむきだし』といったもののためかもしれません。)

とても簡単に言い換えると、「相手のことが好きだからこそ、お互いのことを考えてできる限り長期間過ごすことを目標として求めていく」ということです。そのため、肉体関係の有無や共に暮らしているか、婚姻関係にあるのか、肉体・精神の性別の組み合わせ、性的自認、相手を好きだと表す方法はあまり関係なく、二人がお互いに大切だと思い合っている(法に反しない範囲で)ことを重要だと思っています。

 

しかし、『ソータス』を見ていると、どうやら世間に受け入れられて楽しまれる恋愛というものは、肉体・精神の性別の組み合わせ、性的自認をとても気にするらしいと分かりました。(生まれ育っていれば、”ごく普通”の価値観として身に着くはずのものが、私にはついていないらしいと実感しました。誰かが好きであるのならば、様々な形で、自身と相手が維持できる範囲で好きを保っていけばいいと思っています。)

 

恋愛は誰かを思いやり、共にいたいとお互いを考えるのではなく、派手な喧嘩や無意識の差別、暴力を含んでいるものなのか…(物語的にはその方が面白いのは分かっていますが)と、まだ差別が根強くある気を私は感じ取ってしまい、少しだけ落ち込んでしまう気がしました。(社会不適合者が、落ち込んでいるだけです。)

 

 

2021/10/7追記

しばらく考えていて、気がついたことがあったので追記します。

この『ソータス』を見て、面白いと感じる反面、うーん…と感じた部分がようやく少しずつ言葉にできてきた気がします。

それは、

・特定の人物への悪印象をつけるため(作中のヘイトコントロール)に、「性的マイノリティを見下すような発言を先輩が後輩へ強制(任意ですが、パワーハラスメントにも近いと感じました。)する行為」を利用した。
(この部分でなぜあえて性的マイノリティに対する差別的な行為を入れたのか理解できませんでした。もしかすると、文脈や意図があるのかもしれません。)

・上記のような差別的な意図がある行為(=性的マイノリティへの差別的な意識が窺える言動)をのちに反省する、悪いことであったと作中で表す部分が見られないこと。(主人公たちが同性同士で付き合うこと=性的マイノリティの肯定、とは私は感じません。たとえ自身が性的マイノリティとされる関係・立場になったとしても、過去の行いに対し表明せず、黙ったままでは何を考えているのか推測しかできないためです。)

・性的マイノリティに対する差別的な言動・行動が見られるにもかかわらず、この作品は「男性同士の恋愛を描くBLが主題の作品である」こと。

・的マイノリティに対する差別的な言動・行動が見られるにもかかわらず、この作品の性的マイノリティに属する恋愛を楽しむ人々がいること。

にうーん…と感じました。

何というかまだ明確には言葉にしきれないのですが、「性的マイノリティではない層」が「商業的に売れるために性的マイノリティを扱い」、そのうえで「作中で性的マイノリティへの差別的な言動をする描写」を入れている。そして、こうしたことを疑問に抱かれない性的マイノリティではない人々によって消費されていることを感じ、うーん…となったのだと思います。

LGBTQを真摯に取り扱った作品では、差別的な表現があったとしても問題提起を行うためのことが多く、私が驚いてしまったのかもしれません。

つまり、「性的マイノリティを扱う作品」であえて「性的マイノリティへの差別的な言動」を悪印象をつけるために利用する意味は何だろう? ということです。

現実では性的マイノリティの差別が当たり前だから仕方がない、差別がある日常を描いただけ、主人公たちの恋愛への壁を想像させるため、といったところでしょうか。

リアルといえばリアルな描写ですが、私は恋愛を扱っているのに特定の性的自認・性的嗜好を見下すような描写がある作品の恋愛模様を素直に好きとは言いがたいと感じます。