砂と鉄

よく分からない備忘録たち

『CLOSE/クロース』を見て考えたこと

『CLOSE/クロース』を見て考えたことなどです。

closemovie.jp

 

 

 

感想

感情の機微や人間関係がセリフやナレーションなどでは説明されず、映像で繊細に描かれていくのが印象的ですごかったです。

特に大人が子どもに対する優しさや家族が子どもと接する際の気遣い一つ一つが丁寧でコンプライアンス、というか子どもに対して大人はこうあってほしいと理想的な態度をしており、作品の主題に集中できるように極力ノイズとなるストレスを排除している…と感じました。

ヘイトコントロールがめちゃくちゃうまいし、『よっす、おまたせ、じゃあまたね。』みたいな邦画と比較すると人権意識や子どもへの暴力などの意識の差が天と地くらいあり、悪い意味で驚きます。(言うまでもなく、『よっす、おまたせ、じゃあまたね。』が地です。)

yosuoma-movie.com

 

個人的な経験則ですが、ヨーロッパの映画はかなりコンプライアンスがしっかりしており、重い題材の映画であってもノイズになる嫌な要素(無自覚な暴力・差別・偏見等)が排除されているため落ち込んでいるときでも見られるお粥のような映画を安定して見られる気がします。

(ちなみに子どもが主人公で重めな題材でもとても見やすかった作品に『恐竜がおしえてくれたこと』があります。)

 

この作品は子ども(十代前半)の思春期のまだ感情を言語化できず、感情に振り回されがちな未分化の状態の姿が生々しくも、成長過程のその姿が愛おしくも傷つきやすいと分かっているため「全人類の子どもたち、健康で元気に大きくなってほしい」と強く思いました。

作中の最後に、レオが誰もいなくなったレミの家を見て「もう戻れない」と寂しそうで、でも諦めるしかないのだと割りきって見据える様子に泣いていました。

言語化できない繊細な感情が最後までとてもすごかったです。

 

 

考えたこと

『大丈夫倶楽部』という私が最近はまって全巻購入した漫画があるのですが、『CLOSE/クロース』を見た後にひとりでぼんやりと考えている間に「大丈夫ではなくなったから、レミは自死を選んだのではないのだろうか?」と思いました。

manga-5.com

 

大丈夫という言葉は、いろいろな意味で使われます。

私はこの大丈夫という言葉が大好きでもある一方、苦手は言い過ぎですが使うのが難しいと感じるときもあります。

また大丈夫は、人によって指す状態や状況が変わるうえ、同じ人でも過去と未来で大丈夫なことが変わることがあると思います。難しくも便利で気をつけて使っていきたい言葉です。

最近『大丈夫倶楽部』を読んで、私は大丈夫であったら人間は生きていけるのではないか?生きるうえで大丈夫ってかなり重要な感覚かもしれないと考え始めました。

たとえ未来が分からなくても、今自分が大丈夫だと信じられればまた明日を生き延びられるし、たとえ今は不安でも明日に起きてまた生きてみようと思えるのではないか?という感覚です。

 

では、『CLOSE/クロース』の登場人物たちはどうだったのだろう?と思います。

(作中人物たちの心情を作中から読み取るのはできますが、「大丈夫」という概念を使うともう少し自分なりに噛み砕いて理解できるだろうか?と試しています。)

作中に出てくる大人たちはそれぞれ子どもへの影響を踏まえて感情に振り回されないようにしつつ、感情を出してもいいときには悲しみや喪失を噛みしめて向き合い、自分が「大丈夫」な範囲でレミの死を日常に受け入れようとしているように見えます。

レオも作中を通して彼なりに大丈夫を保とうとしたのではないのか?と私は考えています。

クラスメイトのからかいにレミ以外との人間関係を築いて対処しているのは、子どもゆえに相手のことを考えきれずにしてしまったと思えば、仕方がない精神的防衛と私は考えています。

本当は言葉でレオとレミがしっかり伝え合えればよかったのかもしれませんが、子どもゆえに二人とも大丈夫になるのがうまくいかなかったせいで、レミが死をある一種の「大丈夫」になる方法にしてしまったのかもしれないのは悲しい以外に表現が見つかりませんが…

 

レミは大丈夫になる手段が狭い人間関係の世界で成り立っていて、レオに依存している部分が多かったのだろうか?と私は想像しています。

一方で、レオは大丈夫になる人間関係を新たに作ったり、他のクラスメイトとうまくやっていったりする能力に長けていたのかもしれません。(大丈夫になるという概念ではなくとも、体を動かして心身ともに夢中になれる新しい趣味や、新しい友だち付き合いを始めたりして、今ある悩みや人間関係から目を背けて逃げるのも、目先の問題に向き合うと自分の心が傷ついて負担となるのであれば生きるうえで勇気ある選択の一つだと思います。ただ、それが他人を傷つけるかもしれないと理解する想像力や、目先の問題への対処への経験が不足していたのが問題だと考えています。)

大丈夫になるのは、大丈夫ではない世界(人間関係や環境)から逃げ出せる先を見つけること、大丈夫になれる支え(趣味や友人)を見つけること、自分の考え方などに折り合いをつけて精神的に大丈夫になるように保つこと、いろいろあると思います。ですが、レミは自分が大丈夫になる方法を見つけることや大丈夫になりたいと願うことにすら疲れてしまって最後の「死」という何も考えなくて済む最終手段の大丈夫を選んでしまったのでは…と考えると、自分の中ではなぜレミが死を選んだのかを自分なりに理解できました。

生きていてよかった、今まで大丈夫に過ごしてこられてよかったと分かるのは、辛いときが過ぎるのを待ってからいいことがあったときだけです。辛いときが過ぎるのをいつまで待てばいいのか、辛いときが過ぎ去ればいいことがあるのか、誰にも分かりません。そのため、私は軽々しく「生きている方がいい」とはあまり言えないと考えています。

それでも、レミがもう少し自分が「大丈夫」になる手段を知って世界を広げたり、自分が過ごしやすい世界を認識して、大人になるくらいまで「死」を選ばずにいられたら違う未来があったのでは…と思います。

 

私は自分が今まで過ごした時間の中でも最も生きるのが辛く、今でも記憶が飛び飛びになっている時期があり未だにトラウマで折り合いもつけられていません。

そのときから現実から最後に逃げる先として「死」を身近に考えるようになってしまいましたが、「死」という自分の結末を作らずに今も生きているのには理由があります。

明日か未来は大丈夫になっていたい、今はこれしかできずに苦しいがせめて生きてはいけるくらい大丈夫だ、明日の一日だけでも大丈夫になってみようと感じる漫画や音楽、本、ゲームなどの趣味、インターネットで語られる様々な人たちの生き方に助けられて何とか今まで生きてきた気がしています。

つまり、まだ生きているから大丈夫、明日だけでも生き延びてみようと、臆病な自分は死ぬのが怖くて、死ぬ決心と実行を先延ばしにし続けた結果、何とか大丈夫な場所と環境を見つけられて、自分が大丈夫になれるように考えに折り合いをつけたり、考え事を保留にして元気なときにまた考え始めたり、とにかく希死念慮から目を背けて逃げた結果、今も生きられています。

 

大丈夫、それだけのあいまいな感覚が支えでも、死を選ばずに明日まで生き延びるためには意外と大切な支えだったりするのかもしれないと人の生死を考えていました。

(ただし、これは生者による人命至上主義の思想を振りかざした机上の空論に等しい理想なのかもしれないとも考えています。)