砂と鉄

よく分からない備忘録たち

『スウィング・キッズ』の感想

『スウィング・キッズ』の感想です。

以下では、『スウィング・キッズ』の内容に触れています。

作品の内容に関わる記述があります。

感想が主であり、個人の考えをまとめるための備忘録のようなものです。

(※ときどき細かな修正、加筆をする場合があります。)

(※過去にあった個人サイトに掲載していたものを転載し、一部修正しています。)

 

 

 

 

宣伝やパンフレットが「詐欺だ」と言われてしまうかもしれないと懸念してしまう結末なのですが、個人的にはこの物語と映画を描いてくださった監督、演者の方々、制作者の方々に感謝しています。
(戦争とは、このような物語やあってほしいという思いをすべて打ち砕くのだという残酷さ、そして踊りに魅力されて才能を発揮する踊り手たちに引き寄せられる『戦争の最中でありながらも、娯楽や休息を求めること』『素晴らしい才能へ引き寄せられること』への感動が中心の作品だと思っているためです。)

個人的には、宣伝やパンフレットの表現がとても好きで、「反戦」「戦争」をダンスを通して描くという表現として、すごいと思います。

 

 

 

 

以下からは少し、いろいろと考えてみた感想です。


主人公は、ダンスの天才です。
しかし、兄の存在とイデオロギー(戦争)に振り回されてダンスすら許されません。(踊りの才能を魅せるダンサーではなく、イデオロギーの道具として利用されます。)

才能からダンスに魅力されながらも、ダンスに魅力されることが主人公にとっては重荷だったのではないかと思います。
戦争中に踊りに夢中になっていてもいいのか、兄や同志を放っておいて自分の楽しみを求めていいのか...と自らの才能に苦しみ、他者に認めてもらうことを望んで「許して」ほしかったようにすら思ってしまいました。(舞踊学校(?)の首席という言葉には喜ばず、『死ぬほどうまいくせに』と言われたことにも、「何かに利用可能な才能としてではなく、踊りに卓越している」という点に喜んでいたのではないか、と個人的に感じています。)

 

けれども、戦争(イデオロギーを必要とする行為)は許しません。
この点は、この作品で繰り返し描かれます。

学校の先生であろうが、詩を書く文学青年であろうが、冷麺屋の主人であろうが、韓国語を話そうが、中国語を話そうが、どの民族に属して、どんな夢を持ち、どのような生き方をして、成長をして、各々の人生(物語)を持っていようが、戦争(によって振るわれる暴力)は無常にも人の命と生活をたやすく奪います。

こうした人々が、一発の弾丸で倒れ、誰にもその生き様を知られることなく「戦争・特定の思想や主義に加担した」という理由で亡くなり、夢や思いは消えていきます。
しかし、ダンスを踊ることの喜びや楽しさに魅了される主人公たちに対して、悲しいや残酷だという視点を交えずにこうした点を淡々と描ききったのは、この作品の特徴だと思います。

ただ、己が信じるもののためと「他者を傷つける」(傷つけるとさえ、思えないのかもしれませんし、異なった主義・主張を行う他者を人とさえ思えなくなるのが、戦争でありイデオロギーかもしれません。)ことが、戦争やイデオロギーの恐ろしさのように思えて、「戦争は残酷だから悪いことだ、してはいけないことだ」と考えもなしに主張するよりも考えさせられました。(こうした主張は『なぜ、戦争は残酷か?』という問いに踏み込んでいないと個人的に思っているためです。「戦争が残酷ではない」と仮定をすれば、「戦争」を行ってもいいのでしょうか。と、考えてしまうためです。つまり、「戦争が残酷ではない」と主張することが優位になる立場(戦勝国や特需を得られる立場)にいれば、「戦争は残酷だからしてはいけない」という考えはあっけなく打ち負けてしまうと考えています。理論や思想、主義を振りかざし暴力・戦争によって利益を得ようとする立場の人々は数多くいるため、反戦に対しても性善説に則った分かりやすい「戦争は残酷だから悪いことだ、してはいけないことだ」という考えではなく、知識や歴史を学んだうえで論理的に裏打ちされた考えを持つことが重要ではないのかと私は考えています。)

特に恐ろしいことは、ダンスを見事に踊り、観客たちが踊り手たちに引き寄せられようが、他者から「テロ」だと認識されてしまえば、「自分とは違う人種(民族、生まれ、主義や思想などは関係なく、外見の特徴)」を「殺せ」という考えになってしまうことです。

他者を理解する余地をなくし、イデオロギーに従いつき進むことは「思考の効率化と合理化」「生存を優先する本能」「民族などの社会を維持して、自身の属する民族(集団)の生存の可能性を向上させる」という人の進化(退化なのかもしれませんが)によるものです(だと、個人的に考えています)。
しかし、こうしたイデオロギーに従い、自ら考えることを打ち捨てて、素晴らしい才能がどれほどあったとしても、誰か(国・主義・思想)に持っている憎しみで、何も考えることなく引き金を引くことができるのだと、恐ろしくなりました。(わたしも同じ立場にいれば、作中に出ている人々と同じく憎しみ敵対すると思います。)

けれども、「スウィング・キッズ」が悲しく、残酷な物語であるかと考えてみれば、単純にそう思いたくはありません。
戦争とイデオロギーに振り回されながらも、ダンスに魅力されて、一時であろうともダンスに打ち込み楽しみ、夢中になったという事実があれば、この物語は充分だとわたしは思っています。
(幸せも不幸せも、事実と因果をどこまで物語として認識して結びつけ、『幸せ・不幸せ』と読み取る個人の感覚によると思います。そのため、この物語を『幸せ・不幸せ』という観点から断言をしたくありません。)

熱狂し、夢中になり、未来に少しでも思い出してもらえて、それが亡くなった瞬間ではなく、「最も楽しかった」ときを思い出してもらえれば、それは嬉しいことです。たとえ踊ることが死につながろうとも、踊って良かったと誰かが(それとも、本人たちが)思うことができれば、わたしは良かったと感じます。
亡くなったことを悔やむのではなく、最も輝き、夢中になった瞬間に主人公たちは生きていると思います。

また、主人公たちも、ダンスに夢中になる一瞬に一生を賭けられる才能があったのではないかと思います。(生活を捨てて、夢や楽しみに命まで尽くしても構わないという生き方をできる才能...でしょうか。うまい言い方が見つかりませんでした。)

 

物語の終わりで亡くなったとしても、それは果たして「悲しい」のでしょうか。(こうして『死は悲しいものではないか』と思うたびに、『生存という状態を最善と思う、わたしの偏見と独断に基づく価値の押し付けであり、身勝手にも誰かの生き方を評価しているのではないか』とも思うため、あまり亡くなることをバッドエンドと断言したくはありません。)
イデオロギーと戦争に振り回されながらも、一瞬の熱狂に打ち込み、夢中に踊ったという生き方に、ただありがたく感じ、この物語を見られてよかったとわたしは思いたいです。
そのため、この物語の最も輝く瞬間を切り取った宣伝やパンフレットもとても好きです。

 

 

反戦イデオロギーについて

真面目なことを、少し考えてみました。
肩が凝りそうな内容です。

 

この映画は、「反戦」と「イデオロギー」がテーマになっていることは明白です。(最後のダンスの題名が「Fuckin Ideology」ということ、踊りと戦争を物語の中に混在させながら描いている点です。)

この作品の結末を、主人公たちが亡くならないまま終わらせれば「物語」としては、とても美しいものだったと思います。
しかし、それは「反戦イデオロギー」を描くことはできなかったのではないか、と思ってしまいました。

主人公たちが見事に踊り、何かしらの対立や争いを止めたとして、それは「反戦イデオロギー」だとわたしは感じません。どれほど見事な芸術や研究であっても、国家や「戦争・イデオロギー」に屈して(後年に、『屈した』と表現されることが多いです。しかし、当時は民衆から褒め称えられ『特定の民族・国家・集団・主義に貢献』したとして持て囃される行為であることもしばしばです。)、利用されることは多々あります。(人権などを無視した人体実験、文芸や娯楽といったメディアからの主義・主張を広めるなど。)

(戦争の話であるにもかかわらず、最後までハッピーエンド(生きていてほしい)と思ってしまうことが、戦争を物語の一つの要素(戦争に屈せずに、才能や芸術を介して人々と分かり合う物語を求めているのではないか?)として楽しんでいるのではないか…と考えてしまいました。)

いかに人々が平穏を求めて生きようが、卓越した能力を持っていようが、彼ら一人一人にどのような生き方があり、一人一人に物語があろうと、国家や民族、人種、主義・主張(イデオロギー)で個人を集団と化して、潰していってしまう力を生み出すのが、イデオロギーであり、戦争なのではないか…
そうした残酷さと、それでも人らしく踊りに一時でも生きた人々を描くことで、「スウィング・キッズ」は「反戦イデオロギー」、そして、それらに抗うことのできる可能性(だと、わたしが信じたいものです。)を表しているのではないかと思っています。