砂と鉄

よく分からない備忘録たち

考えたこととカミングアウトのこと

これはわたし自身が考えたことと、カミングアウトをしたことを文章に起こしたものです。

性別・性自認性的指向・性表現についてのわたしのことです。

書いていて何が書きたいのかよく分からず、まだ言語化しきれない部分が多々あるため、ごちゃごちゃした文章になっています。

 

<参考サイト>

jobrainbow.jp

 

※これは一個人の体験・考えであり、誰にもあてはまることではありません。

 

 

これを書く理由

わたしは、いわゆる性的マイナリティに属するのだとここ数年自覚をし始め、そう決めて生きるようにしてみたことで少しずつ楽になったこと、以前感じていたもやもやを少しずつ言語化できていること、無意識にしていた差別的な考えに気がつきました。

あまりインターネットでは自身の身体と精神については明確に表現してこなかったのですが、シスヘテロではないこと、今まで「わたし」がしていたことが「性的マイノリティのわたし」がしていたこととして読み取られるのではないかと怖かったためです。

それでも、わたしのような者がいることやわたしのした経験が何かになればいいなと思い、うまく言語化できない部分もありますが書いてみることにしました。

まだ勉強・考え中であるため、わたしの認識や考えには誤りもあると思います。今、できる限り生きやすいようにするために、わたしが知っている言葉と概念(間違って理解しているかもしれない)で書いています。

また自分でも何を表したいのかが分からず、自身の中にある何かを吐き出すために書いている側面が強いです。お気をつけください。

 

 

わたしのこと

わたしは次のように自身の性質を決めています。

性自認Xジェンダー

性的指向:無性愛

・性表現:ノンバイナリー

今まで、身体の性別にあった格好をするのがいやだ、恋愛・性愛が分からないということで悩んでいたため、いろいろ調べてみて一番合っている・楽だと感じたものに決めました。いつか変わるかもしれませんが、これを決められたことで楽になりました。

決めたことで楽になったというのは、「恋愛を理解できないわたしが悪いのではないか」「性愛を遠ざけたいわたしは生物として異常なのではないか("普通"というものはないと今は思っています。)」といった考えをしていましたが、決めたことによって「わたしはわたしだ」と思えるようになったことです。

以下から、それぞれのことについて書きます。

 

 

性自認Xジェンダー

身体的性別は女性にあたりますが、わたしの性自認は「無性(または、中性)」です。または、男性・女性でもなく、「わたし」という性別です。

(他にも、「男性・女性どちらもグラデーションになっていて存在している」「両性」といった方もいると思います。)

わたしの身体的性別は「女性」にあたりますが、そもそもわたしは自身が女性・男性である以前に、「肉体があること自体がおかしい」「体温に違和感がある」と感じています。

しいていえば、無機物の意思なき八面体になりたいと思っています。

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(理想の意思なき八面体たち)

 

そのため、身体的な性別で嗜好や趣味などを判断されることをあまり好ましいとは思わず、「わたし」の特徴を見てほしいと考えています。

 

今まで聞いた中でいろいろ悩んだことは、以下の通りです。

・男性でも女性でもないって何?おかしい。
(男女どちらでもない性がそもそも認めてもらえない。かっこつけてるの?最近はやりのLGBTQでしょう?みたいに捉えられ、変えられない資質を選択的にあえてして「性的マイノリティ」でいると思われている。)

・女性(または男性)として自身がないからそう思ってるんでしょ?
(別の要因を探されて、言い訳でしょう?と言われる。これは身内に言われたのでかなり衝撃で、今でも思い出すと落ち込みます。)

・そんな人がいるんだ。身の回りにいたんだ。
(そもそも身近にいない珍獣のように見られている。これは「性的マイノリティを差別していない」という人がよく言っているイメージがあります。)

・性別が曖昧ということはおかしいのか?

・男性か女性か、そのどちらかに自分を決めて生きなければいけないのか?

・男性でも、女性でもないと感じるわたしは、してはいけない選択をしているのではないか?

・外見や身体的な魅力に価値を見出し、世間にもそうした価値を認識できるようふるまわなければいけないのか?(身体的性別通りにふるまい、それが周囲にも伝わるようにしないといけないのか?)

と悩んだことがあります。

 

 

性的指向:無性愛

わたしは、身体的に男性・女性問わず、恋愛・性愛を抱きません。また、肌の触れ合い・粘膜の接触・性的な接触を求めたいとは思いません。

ただこれは人間的な愛情・友情・博愛などの感情、喜怒哀楽といったものがない「ロボットみたいだ」という印象にはつながってほしくありません。(恋愛・性愛がない人を「ロボットみたいだ」と思うのは自由にしてもいいと思いますが、直接言われるとシスヘテロではないから非人間的だと言われているようにわたしは感じます。)

なぜなら、わたしは友情・身近な他者への思慕や信頼・博愛(善意)を抱くためです。

わたし自身に恋愛・性愛がないこともあり、もしも他人から求められたとしても違和感・疑問・嫌悪感が発生することがほとんどであり、たとえ好意であると分かっていても受け入れられずに避けるようにしています。

異性愛・同性愛のことは理解できますが、どうして相手を恋人として好きになるのだろう、どうして好きになった相手に性的な行為をしたいと思うのだろう、なぜ性的な接触と愛を結びつけるのだろうかというのは分かりません。そのため、性的な接触が「愛」だと言われても分からないうえ、わたしにとっては愛ではない性的な接触として見えてます。

 

今まで聞いた中でいろいろ悩んだことは、以下の通りです。

・本当に恋愛できないの?したことあるんじゃないの?

(できないことの証明は不可能なのに、しろと言われている。=自身の「無性愛」ということを理解してもらえていないと感じる。)

・いい人に出会っていないだけだよ。

(いい人に出会わなければいけないのか?わたしには恋愛・性愛がないにもかかわらず、「恋愛・性愛があって恋愛ができる」という前提で話をされていると感じる。<=無性愛なのに、異性愛の文脈で話をされていて理解をされていないと感じる。>)

・恋愛・性愛を抱かないのは未熟だ。

(人として未熟ということで「不足したもの」とみなされていると感じます。恋愛・性愛を抱かないというわたしが認められていないように感じ、無性愛であるわたしが「おかしい」のか?と感じます。)

・恋愛や性愛がない、そうした接触ができないのはおかしい?

・人として未熟、または欠けたおり生きていない方がいいのでは?

・恋愛や性愛を持てないのに、持たなくてはいけないのか?(自転車に乗れないのに、どうにかして延々と乗ろうとしている気持ちに似ています。)

と悩んだことがあります。

 

 

・性表現:ノンバイナリー

わたしは性自認Xジェンダーでもあるためか、特に外見から「この性別で見てほしい」「この性別で認知されたい」とは思いません。

ただし、身体的性別で判断されたくないため、中性的な服装を好む傾向があります。もしくは、「わたしがしたい」服装を好みます。

 

今まで聞いた中でいろいろ悩んだことは、以下の通りです。

・どうしてそんな恰好をするの?

(身体的性別に合っている格好をしなければいけないと言われている気がする。)

・どうして身体的性別に従って外見をつくろわなければいけないのか?

時と場合によると思っていますが、と悩んだことがあります。

 

 

カミングアウトについて

カミングアウトは自覚したときに信頼できる方に伝えて、「そうなんだ」で終わればいいと思っています。(いつかは誰にでも好きな気軽にできる(しなくてもいい)世界になっているといいと思います。)

しかし、私の場合は自覚から身内に伝えるまで4~5年かかりました。

わたしは隠し続けていることが嫌だったこともありカミングアウトしましたが、カミングアウトはするもしないも自由であり、するべきことではないと考えています。

その理由とカミングアウトまでの流れを書きますが、性的マイノリティへの差別や偏見を含む表現があるため、お気をつけください。

 

 

 

アセクシュアル」という言葉あると、十代の後半あたりで知ったような記憶がある。調べてみてわたしもそうかもしれないと思ったけれども、まだ恋愛や性愛と友情が未分化なだけだ、いつかはするかもしれないという考え、「まだいい人が見つかっていないだけ」と親から言われた経験があり、自分に当てはめてはいけないと思った。

成人を迎えたとき、わたしは憂鬱な経験をした。成人の記念に振袖を着て写真を撮るように身内に言われていたからだった。わたしがすることは、「振袖を着て」「化粧をして」「写真を撮られる」だけだった。

それでも、たったそれだけがとてつもなくいやだった。

今は、「わたしはわたしという性別・無性」という性自認に異なっている「女性がする振袖」という服装を身体的性別が女性だから無条件にするものとして押しつけられ、「成人したときに記念になる(=身体的性別に合った格好をいいとされ、性自認を無視されていることが『記念』として認知されること)」「女性的な魅力として認識される文脈を持つ振袖を、性自認が女性ではなく、ふるまう性が女性でもないわたしが着ること」が嫌だったと説明ができる。つまり、「身体的性別が女性だから振袖を着て、記念写真を撮ること」は「わたしの性自認・ふるまう性が無視されている」と感じることだった。

しかし、当時のわたしには「アセクシュアル」「無性愛」「Xジェンダー」という言葉を自身に当てはまるかもしれないとは思いつつ、当てはめてもいいのか分からなかった。わたしは「わたし」であって、そういう言葉を使って表現しないと理解されないとも分かっていなかった。

当時のことはよく覚えている。

わたしは車の中で親と話していた。

「成人の写真、振袖着ないとね」

「振袖は着たくない」

「約束したでしょ」

わたしはそんな約束をしていなかった。わたしがしたのは、「成人の写真を撮る」だけだった。写真の被写体になるのも苦手なため、成人の写真すら撮りたくなかったためスーツならいいと譲歩して『成人の写真を撮る』という認識でいたが、親は違ったらしく『振袖を着て成人の写真を撮る』という認識でいた。

「着たくない」

「でも、記念だよ」

わたしは説明ができなかった。言葉を探そうにもなかった。こうしたとき、わたしは迷子になった気分になる。

わたしがどこにいるかが説明できない。どうしてここにいて、迷子になったかも説明できない。わたしを表す言葉・概念がなく、どうしていやなのかも説明できなかった。

そして、わたしは泣いてしまっていた。どうしてもいやなのに、自身でも何がいやなのか分からなかったからだ。頭がぐちゃぐちゃして、言葉をうまくつなぎあわせられなくて、伝える術がなく、身体的反応の「泣く」が出てしまった。子どもが言葉にできない激情からかんしゃくを起こすのに似ていたと思い。

「泣けばいいと思ってるんだろ? 泣くなよ! 泣けばいいんじゃない! わがまま言うな!」

そこから、あまり記憶がない。

ただ、わたしが持っていることや感じていることは「泣けばいいと思っている、わがままな好み」だと思われていた。

わたしが持っていることや感じていることは、周囲とは違っているから自身を変えなければいけないことだった。どうしてだろう。してもしなくても、死んだりはしないのに。

わたしが持っていることや感じていることは、どうしても変えられないから泣くしかできなかったのに。

今までずっとどこかで、恋愛や性愛がないわたしはおかしいと思い、誰にも言わずに密かに悩んでいた。いつか、変わるかもしれないと思っていたから。

でも、泣くことすら、許されなかった。

生まれてこなければ、よかった。

わたしという意識と自我を持つ脳が憎かった。

銃があれば、今すぐにでもわたしの頭をぶち抜いてやろうと思った。

そうだね、と言って、わたしの持つものが変えてしまえられればよかったのに、わたしはそんな簡単なこともできなかった。わたしが悪いんだ。

変えて『普通』になりたくても、どうしてもなれなかった自身が心の底から嫌だった。

 

その経験から、自責の念と生きていること・存在していることへの後悔、罪悪感があり、性自認性的指向を隠して過ごすようになった。

隠していれば、いつかは変わるかもしれない、変えられるかもしれないと思い込んでいた。いずれは変えなくてはいけないと思っていた。

それでも、もう変えられないと分かっていたから、隠してなかったことにしようとした。

 

それから、数年が経ち、わたしは結局何も変えられないままだった。悩んだまま、ひとまず隠しておくことしかできなかった。

けれども、親が『ミッドナイトスワン』を見て差別や偏見、家族や愛の形を考え直し、心を打たれたと言ったときがあった。(元から性的マイノリティに差別があったわけではなく、「そういう人もいるけれど、あまり理解できていなかった。差別や偏見は持たない方がいい」という考えをしていました。)

それがきっかけで、わたしは恋愛ができない、性愛もないと伝えた。

「そうだったのか」

特に何もなく、すんなりと伝えられた。

 

さらにしばらくが経ってから、わたしは「性自認Xジェンダー」であること、「性的指向が無性愛」であることを伝えた。

「そのままでいい。変えなくていい」

と返された。

受け入れられてよかったとは思いつつも、カミングアウトが勇気がいるものや、恐怖があるものではなくなればいいのにと今は思う。どうしてわたしが「わたし」である要素を伝えるのに(シスヘテロはそんなことをしないのに)こうして苦しかった記憶がつきまとうのか、いやになった。

わたしは生きていない方がいい、生まれてこなかった方がいいと思ったことはなくならないけれども、これからはそうしたことにできるだけ悩まずに過ごせるといいと思う。

 

 

 

この経験から思うこと

この一連の経験はかなりわたしの中でトラウマとなっているらしく、今でもあまり笑えない(一生笑えないと思います)のですが、「笑うしかねえ!!」と防衛反応で笑って脳が感情を認知する前にあまり細かく認識できないようにしています。思い出すと辛いので…(これを書いているときに泣いてしまい、「泣くの本当に無駄だし、クソっすわ!!好きに生きさせろ!!でも辛いな…」と思いました。)

 

自身が生まれ持っていつでも変えられるものではないことを、こうして「わがままだ」「泣いてごまかそうとするな」「周囲に合わせろ」とするのは、たとえ性的マイノリティは「シスヘテロにもなれるのに、そうしたくてそうしている」と考えていたと言葉や態度にして伝えないでほしいと今のわたしは考えています。

わたしも異性愛や同性愛が理解できないため、理解してもらおうとは思っていません。それでも、「そういう生き方・考え方・認知の仕方」があると分かってもらって、理解はできないけれども「そういう人がいる」という場所にでも置いておいてほしいです。(犬がかわいいのは理解できないけれど、「犬が好き」という嗜好があるとは理解して特に肯定・否定も「犬が好き」な人の前では何も言わないイメージと似ている気がします。)

理解というのは難しく、「それは本当にXジェンダーなの? 無性愛なの?」と疑問を投げかけることで暗に判断を否定する、性的マイノリティであるのは外見や自己肯定感に理由があるからその性的自認・性的指向を選んでいる(=性的マイノリティは選択してあえてやっている。シスヘテロを選択できない・していないことが異質だという認識)のではないかという考えは、理解をしているふりをした差別・偏見かもしれない…とわたしは考えています。
(なぜなら、わたしもシスヘテロの方がどうしてシスヘテロなのか理解ができないうえ、どういう思考をして異性に対して恋愛するのか・性愛を抱くのかが分かっておらず、気になっているためです。)

そのため、まず疑問や原因を探るより、「そういうこと」として受け入れられるのがいいのかなと考えています。(これは誰かにもそうしてほしいではなく、わたしがこうしていこうかなという指針です。)